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東日本大震災とそれにともなう原発事故。いまなお多くの方々が避難を余儀なくされたり、生業を継続できなかったりという厳しい影響をうけています。
そのような過去に類を見ない状況下にもかかわらず、故郷・つながり・生業を取り戻し、いつの日か地元に戻って再興させようと奮闘している方々がいらっしゃいます。
今回は、故郷である浪江町を離れざるを得なかったにもかかわらず、生業である日本酒の製造を浪江町で再開することを目指して、山形県で酒造りを再開された株式会社鈴木酒造店の鈴木大介さんにお話を伺いました。
今回はその2です。
その1 蔵の歴史が残った (2014年5月15日公開)
その2 葛藤のはざまで (2014年5月16日公開)
その3 被災地と飲み手の方々をつなぐ酒 (2014年5月19日公開)
その4 多くの福島の人たちに恵みを運んでくれることを願い (2014年5月20日公開)
“一本で我慢する”といって頂くのが申し訳なくて
“蔵の歴史”である酵母が残っていた。それは鈴木さん達酒造りに関わる方々だけではなく、浪江から避難せざるを得なかった方々にとっても大きな“希望”だったことでしょう。
そして南会津町の酒蔵のご厚意で設備を借り、酒造りを再開しました。
「たくさんの方々から“まっていた”とお声がけ頂き、震災でお世話になった方々へのお礼に送りたいからと、たくさんの注文を頂いたんです。」と鈴木さん。
ところが、再開したてでその規模も限られた中での酒造り。全ての注文に答えることは困難でした。
「事情をご説明するとみなさんご理解くださいました。でも“一本で我慢する”といって頂くのが申し訳なくて。すぐに造らなくちゃと。」
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そういった想いを抱く中、鈴木さんは難しい判断を迫られます。
自分のことのように抱き合って喜んだ
全国の方々から空いている酒蔵を紹介するからそこで酒造りを再開しないかと声を掛けられていたという鈴木さん。それでも当初は福島県外で酒造りをするということは考えていなかったそうです。
出荷前の酒が津波ですべて流されてしまった、つまり一年分の利益を失い経営的体力が無い中、補助や支援を受けにくい県外に出ることがためらわれるということもありましたが、それ以上に精神的な葛藤がその決断に踏み込めない理由でした。
「自分が福島県から出ていって県外で酒造りを始めたら、自分が風評の加害者になってしまうのではないか、県内で支えてくださっている方々が白けてしまうのではないか、そう悩みました。」
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浪江町で再び酒造りをするという想いが汲み取られずに、福島県での酒造りを諦めたと捉えられたら県内の酒蔵に申し訳ない、本来であれば鈴木さんが背負う必要のない重荷を背負っていたのです。
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「原発事故後の福島の酒は飲めないから今あるものを買う、と聞いたときとても悲しかったです。
だからこそ、震災初年度に早場米を使って酒造りを行いました。県内で一番早く出荷される新酒に使用する新米から放射性物質が検出されなかったと聞いたとき、他の県内の酒蔵の方々と一緒に、自分のことのように抱き合って喜んだことを昨日のように思い出します。」
それほどまでに、鈴木さんの福島県に対する想いは強かったのです。
造ってくれる人間は変わらないから
鈴木酒造店の酒を待っている人達に酒を届けたい、そして相双地域のある意味象徴たる“相馬野馬追”までに酒を提供できるよう酒造りの再開を間に合わせたい。
その想いと福島県に対する想いの中で葛藤を続けていた鈴木さん。そんな中背中を押してくれたのは、県外に出ることを非難されるかもしれないと思っていた、ずっと支え続けてくださった方々でした。
「たとえ県外に出ても、造ってくれる人間は変わらないから、と。その気持ちが嬉しくて、それにこたえなければならないと思いました。」
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鈴木さんは、浪江町での酒造りの再開を成し遂げるという想いを胸に、県外に飛び立ちます。
次回、被災地と飲み手の方々をつなぐ酒 は5月19日にお届けいたします。